日本の英語教育

2010/10/24 Sun (No.125)

 10月20日の朝日新聞朝刊に日本の英語教育について、鳥飼久美子のコメントが載っていました。鳥飼久美子といえば、わたしが学生のころ同時通訳の第一人者でした。

 わたしは、英語の教師ではありませんが、生徒たちが使っている英語の教科書をのぞいてみると、わたしが高校生であった頃と比べて、表現は平易で内容も生徒が興味をもてるものになっています。授業も、読解だけでなくオーラルコミュニケーションをとりいれた会話中心のものに移行しつつあります。

 学校で近々スピーチコンテストがあるので、スピーチの練習をしている生徒がおり、ちかくで聞いていると、わたしには、ネーティブがしゃべっているようにしか聞こえません。lとrの違いすらわからないわたしにとって、とてもかっこよくうらやましく思います。またその横では、英語の先生が発音のアドバイスをしています。
 
 しかし、意地悪くわたしは考えます。アメリカ人のようにしゃべれても、内容が乏しければ、10歳のアメリカ人のこどもがしゃべっているのと大差ありません。発音やイントネーションがすばらしくても、何を伝えたいのかがはっきりしなければ、人に感銘を与えることはできません。

 最近の生徒は、論理的に考えることが苦手で、小学生のように、「朝7時におきて、パンを食べてあわてて学校に行きました」のような行動の羅列に終わるような文章を書きがちです。これをそのまま英語にした文章をいくら流暢にしゃべっても、そこから得るものはありません。ところが、伝えたい情報があり内容が豊富なら、つたない英語でも人につたわります。大事なことは、なかみです。日本語で、明確な論理展開ができることが英語で表現するための基礎になると思います。その内容を誤解されないように英語で表現できれば十分ではないでしょうか。

 鳥飼久美子は述べています。「意味が通じるなら、それでいいじゃないですか。これが国際共通語としての英語です」「英語は米英人の基準に合わせる必要はない時代に入りました。私がパラダイムシフトというのはそういう意味です」。

 わたしも、言葉は表現のための道具だと思います。私たちの先祖はヨーロッパのすすんだ技術を学ぶために、多大な努力をして外国語を勉強しました。そして、外国語の学習そのものも一人歩きするようになりました。「語学」という言葉がそれをあらわしていると思います。戦後はアメリカ人のように「流暢にしゃべる」ことがひとつのステイタスとなっています。そして、それが「学問」の一種だと思ってしまいます。アメリカ人のようにしゃべることがかっこよくスマートなのです。しかし、「アイワンナ」とか「ゲッラッ」とかいうことではなく、誰が聞いても理解できる「英語」を書き、話すことが実は求められているのではないでしょうか。
関連記事

コメント

Secret



プロフィール

Author:進路ルーム
京都の大学で大学・大学院と8年間を過ごし、高校の教師となりました。文系ですが、コンピュータ大好き人間。人間(生徒)に倦むと機械(コンピュータ)が恋しくなり、機械に倦むと人間が恋しくなります。

ブログ内検索
カテゴリ
今まで訪問された方
最新記事
月別アーカイブ
RSSリンクの表示