知的生産の技術(その2)
2010/07/18 Sun (No.23)
『知的生産の技術』を読みました。現代を先取りするような魅力的な文章がたくさん並んでいます。
「知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報-を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ」「情報産業こそは、工業の時代につづくつぎの時代の、もっとも主要な産業になるだろうと、わたしはかんがえている。」
今の私たちから見ると当然の帰結のように思える情報化社会ですが、この本は、1969年に書かれています。いまでは、私たちにとって、ホームページやブログそしてツィッターなど、情報発信がとても身近な時代になりました。だれでも「知的生産」ができる時代です。しかし、その「知的生産」の中身については、玉石混交で、まだまだ問題が多いといえます。
梅棹先生は、何かを思いつくとすぐさまカードに書きとめる、ということを提唱され、そのために、B6判の大きさの京大型カードを発明されました。「カードにかくのは、そのことをわすれるためである。わすれてもかまわないように、カードにかくのである。標語ふうにいえば、『記憶するかわりに、記録する』のである。」そして、「カードはくりかえしくることがたいせつ」で、「いくつかをとりだして、いろいろなくみあわせをつくる。」そこで「さらにあたらしい発見がもたらされる。」とおっしゃいます。
では、知的生産の技術について、梅棹忠夫はどのように述べているのでしょうか。知的生産を行う際には、主題に関係ある事柄を、カードや資料や本からの知識もふくめて、思いつくままに、B8判の紙一枚一枚に、一項目ずつ書いてゆき、一通りでつくしたらと思ったら、それらを机の上に並べてみる。そして「論理的につながりがありそうだとおもわれる紙きれを、まとめてゆくのである。何枚かまとまったら、論理的にすじがとおるとおもわれる順序に、その一群のかみきれをならべてみる。そして、その端をかさねて、それをホッチキスでとめる。これで一つの思想が定着したのである。」
この方法を「こざね法」と呼んでおられますが、「こうゆうふうにしてできたこざねの列を、何本もならべて、みだしをみながら、文章全体とてしての構成をかんがえるのである。」そして、「ここまでくれば、もう、かくべき内容がかたまっただけでなく、かくべき文章の構成も、ほぼできあがっている」と述べておられます。
今こうして、『知的生産の技術』を再読して、40年という年月を超えて、その叙述にまったく古さを感じません。カードをコンピュータに置き換え、書き溜めた断片や、いろいろのデータをつなぎ合わせながら、文章を構成していく。コンピュータでなら、断片の順序の組み換えや、バリエーションの追加や削除も簡単です。文章構成のための方法論について、これほど有用な示唆があったことについてふただび驚いています。
しかし、実際ところ方法論や発想法にすぐれた技法があっても、思考が貧弱であり、述べるべき豊かな内容がなければ、優れた文章は生まれこないことも事実です。私の場合が、まさにそうでした。いくら「こざね」を作ってならべてみても、小学生の作文のようで、新たな発想にはいたりませんでした。
また、梅棹忠夫は、「おわりに」のなかで、「今日までのしつけや教育は、物質の時代には、うまく適合していたであろうが、あたらしい情報の時代には、不適切な点がすくなくないであろう。情報の生産、処理、伝達について、基礎的な訓練を、小学校・中学校のころから、みっちりとしこんでおくべきである。ノートやカードとつけかた、整理法の理論と実際、事務の処理法など、基本的なことは、ちいさいときからおしえたほうが、いいのではないか。」と述べています。
十年一日のごとく、高校生に「ひからびた知識」を伝授している私にとって、耳の痛い言葉となりました。
「知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報-を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ」「情報産業こそは、工業の時代につづくつぎの時代の、もっとも主要な産業になるだろうと、わたしはかんがえている。」
今の私たちから見ると当然の帰結のように思える情報化社会ですが、この本は、1969年に書かれています。いまでは、私たちにとって、ホームページやブログそしてツィッターなど、情報発信がとても身近な時代になりました。だれでも「知的生産」ができる時代です。しかし、その「知的生産」の中身については、玉石混交で、まだまだ問題が多いといえます。
梅棹先生は、何かを思いつくとすぐさまカードに書きとめる、ということを提唱され、そのために、B6判の大きさの京大型カードを発明されました。「カードにかくのは、そのことをわすれるためである。わすれてもかまわないように、カードにかくのである。標語ふうにいえば、『記憶するかわりに、記録する』のである。」そして、「カードはくりかえしくることがたいせつ」で、「いくつかをとりだして、いろいろなくみあわせをつくる。」そこで「さらにあたらしい発見がもたらされる。」とおっしゃいます。
では、知的生産の技術について、梅棹忠夫はどのように述べているのでしょうか。知的生産を行う際には、主題に関係ある事柄を、カードや資料や本からの知識もふくめて、思いつくままに、B8判の紙一枚一枚に、一項目ずつ書いてゆき、一通りでつくしたらと思ったら、それらを机の上に並べてみる。そして「論理的につながりがありそうだとおもわれる紙きれを、まとめてゆくのである。何枚かまとまったら、論理的にすじがとおるとおもわれる順序に、その一群のかみきれをならべてみる。そして、その端をかさねて、それをホッチキスでとめる。これで一つの思想が定着したのである。」
この方法を「こざね法」と呼んでおられますが、「こうゆうふうにしてできたこざねの列を、何本もならべて、みだしをみながら、文章全体とてしての構成をかんがえるのである。」そして、「ここまでくれば、もう、かくべき内容がかたまっただけでなく、かくべき文章の構成も、ほぼできあがっている」と述べておられます。
今こうして、『知的生産の技術』を再読して、40年という年月を超えて、その叙述にまったく古さを感じません。カードをコンピュータに置き換え、書き溜めた断片や、いろいろのデータをつなぎ合わせながら、文章を構成していく。コンピュータでなら、断片の順序の組み換えや、バリエーションの追加や削除も簡単です。文章構成のための方法論について、これほど有用な示唆があったことについてふただび驚いています。
しかし、実際ところ方法論や発想法にすぐれた技法があっても、思考が貧弱であり、述べるべき豊かな内容がなければ、優れた文章は生まれこないことも事実です。私の場合が、まさにそうでした。いくら「こざね」を作ってならべてみても、小学生の作文のようで、新たな発想にはいたりませんでした。
また、梅棹忠夫は、「おわりに」のなかで、「今日までのしつけや教育は、物質の時代には、うまく適合していたであろうが、あたらしい情報の時代には、不適切な点がすくなくないであろう。情報の生産、処理、伝達について、基礎的な訓練を、小学校・中学校のころから、みっちりとしこんでおくべきである。ノートやカードとつけかた、整理法の理論と実際、事務の処理法など、基本的なことは、ちいさいときからおしえたほうが、いいのではないか。」と述べています。
十年一日のごとく、高校生に「ひからびた知識」を伝授している私にとって、耳の痛い言葉となりました。